第Ⅰ章 黄色い靴

まず自己紹介をしておこう。私は1919年12月29日か30日、あるいは31日の夜11時30分、ニースで生まれた。時刻は確かなのに、日付けは曖昧だ。市役所には1920年1月1 日と届けられている。私の家族は人口調査のときに面倒がないように、少々嘘をついたのだろう。両親には他に子どもはなかったはずである。

私たちの一家はニース旧市街サン・ジョゼフ通り一番地の、いまは跡形もない建物の二階に住んでいた。父が生まれた所は、そこから数軒先の十番地だった。私には大きな亀裂の走ったぼろ家を取り壊す作業を見た記憶がある。かつては美しかったはずのその館はイタリア風の建築だった。昔は中に裁判所もあって、町の名士たちの会合もしばしば開かれていたらしい。
我が家の台所は、かつては市議会の会議室だった一画にあった。納戸の奥に秘の扉があったことをよく思い出す。子にとっては住居というよりも、神秘的な、夢を掻き立ててくれるお伽話の屋敷といった方が相応しい家だった。いまそこに建っているのは、どこにでもあるような味も素っ気もないビルである。古いニースは、自身を破壊する菌を自ら培養してしまった。老朽化した建造物と、それに対する再建計画者の無関心が、この界隈の個性を徐々に削ぎ落とした。わずか数十年の間に、15世紀依頼話されてきた、れっきとしたニース方言さえも聞かれなくなってしまったのである。

私が子どもだったころ、ニース方言は日常使われる、いわば母国語だった。父ばかりでなく、隣近所の人たちもみんなこの言葉を話していた。しかし、フランス 語も話すことのできた数少ないお偉方たちは、この方言を外国語と見なしていたに違いない。ともあれ、このニース方言は、私たちの独自性をいやがうえにも強調していたのだった。
多くの人はそう思っているようだが、ニース方言はラングドッグ語(フランス南部の多数派方言)ではない。だからプロバンス語(ラングドッグ)を話す人たちとの会話にはとても骨が折れた。彼らに比べれば、ロンバルト川の向こうに住むイタリア人と話す方がよほど楽だった。ニース方言もイタリア語も、ローマ帝国の昔からこの地に住んでいたリギュール人の話すリグリア方言だったからである。川を隔てた人々の間での結婚が多かったのは、恐らくそのためであろう。

私の母は、当時、モナコの副領事だった伯父の家に滞在していたイタリア女性の子として生まれた。母の家族は、イタリ ア・ロマーニァ地方のフォルリに長い間住んでいた。だから母はイタリア人なのである。母方の祖父アルフレッド・ラッジは、中学校時代、ある活発でいささか騒々しい青年と同級となり、一緒にある新聞を発行していた。その評判と影響はすぐに学校の壁を越えて広まっていった。社会主義運動が始まり、火の手が上がった。燃え上がった火はフォルリ中を震撼させた。言い忘れたが、その青年の名はベニート・ムッソリーニである。

そんなわけで、祖父は投獄された。未来の独裁者ムッソリーニは、ここで自分の周辺を真空にしてしまうという周知のテクニックを見につけた。友人たちを回りに立た せ、その囲いの中で睨みをきかせるという方法である。しかし、祖父アルフレッド・ラッジは運よくそこから脱出することができた。祖父はすぐに亡命の道を選んだ。そこで母は生まれ、やがて私の父となる人に巡り合ったというわけである。

私が生まれたとき、父は二十歳だった。
その名はアンベール。父方の祖父はピエモンテの力持ち、アルプス山麓に住む真のガリア人だったから、父にダンテと命名するといってきかなかったのだが、市役所の職員はこれに頭から反対した。したがって、ダンテは父の第二の名となった。アンベール・ダンテ・トマティスは、若くして実務の世界に入った。父はしばしば、町のプロテスタントの名家だった医師、ドクトル・ピラトの助手だった母の手助けをした。そしてさまざまな職を経た後に、「レクレルール・ド・ ニース」という新聞社で活字用の鉛を溶かす職工となった。そのころ父は胸を病んでいた。それは、いうならば時代病、南仏病、そして父の家系の病だっ た。(父の兄弟姉妹のうち、何人かは結核で死んでいる。)だが、父は体格がよく、背もすらりと伸びて、どこか人を圧倒するところがあった。顔だちは彫りが 深く、鋼鉄のように涼しい、青い目をしていた。ブロンドに近い豊富な髪は、適度にウエーブがかかっていた。

父は昼も夜もなく働いてばかりいた。すさまじいエネルギーだった。三交替のところを一人で請け負っていたのを見たこともある。父はまた、仕事の合間には、欠けていたフランス語の教養を身につけることに追われていた。子どものころからニース方言しか話さなかった父は、独学でフランス語の会話と読み書きを習得した。その結果、父は完全にフランス語をマスターし、手紙の文章は模範的な域に達した。私が保管している父の書簡は、彼がいかに完璧にフランス語のメカニ ズムを身につけていたかを如実に示している。父はほとんど仕事を休むということがなかった。私は子どものころ、父を通して、大人の生活というものは息つく間もなく与えられた課題をこなし、努力に努力を重ねることだという揺るぎない信念を持った。それはその後、私の生活の信条ともなった。いまでも私は、たゆまずに働く労働者である。義務からではなく、それが自然のリズムとなって私の身についてしまった。だから仕事なしにいると、孤児になったような思いがす る。

父は1914年の戦争が始まる日まで、一度も歌というものを歌ったことがなかった。戦勝を祈って、「レクレルール・ド・ニース社」ではちょっとした宴会を開いた。多くのフランス人と同じように、ニソワ(ニース人)もベルリンが三週間以内に降伏するものと信じていた。それに前線が地中海の沿岸から遥かに隔たっていたこともあって、誰しもが何も考えることなく愛国心に酔いしれることができたのである。さて、宴席がデザートに入ったとき、各人が一曲ずつシャンソンを歌わなくてはならなくなった。笑い者になりたくないと父は必死で拒んだ が、しつこく請われるままに立ち上がり、しぶしぶ、ラ・マルセイエーズを歌うことにした。ところがその声が余りにばかでかかったので、一同は仰天した。 ディレクターのガリバルディ氏は、父を傍らに呼んで、自分が金を出すから音楽と声楽のレッスンを受けなさいと囁いた。そのとき、父は十四歳だった。あれこれと仕事を抱えた上に、また新しい課題が加わった。才能が認められたからといって、有頂天になることはなかった。素晴らしい人間であり、有能な教育者でもあった二人の先生について学びながら、父はそれまで通り従順に仕事を続けた。

父は二人の教師から極めて役に立つ教えを受けることができた。父は二十一歳で舞台に立ったが、それでも新聞社の仕事を投げ出しはしなかった。次第に昇進して、その頃はいっぱしの編集部員になっていたからである。しかし歌手を目指しての長い準備期間は立派に実を結んだ。すぐに人気は高まり、他の町で歌う契約が殺到した。やがて父はプロの歌手としてデビューした。「気品あるバス歌手」として国際的な名声を得るまでに、それほど時間はかからなかった。

私はいつも父が特別の存在であると信じていたし、その死に至るまで深く気持ちが通じ合っていた。父に負うところには、計り知れないものがある。父がどちらかと言えば、複雑な少年時代をすごしたらしいことを、遠回しの表現からうかがい知ったこともあった。

父は「トール」、すなわち「拗ねっ子」というあだ名で呼ばれていた。拗ねていたとすれば、それは多分、大家族の十九番目の存在として、愛されていないと感 じていたからだろう。本当にそうであったかは別にして、その愛の欠乏が父の胸にしこりを残した。父は自分の息子には同じ苦しみ、同じ苦労を味わわせたくないと思っていた。私の少年時代、絶え間ない日常の諍いの中でも、父はいつも私の見方となった。このことはもっと先話そうと思うが、父は「耳」であった。いつも私の話に耳を傾けてくれた。
誰よりもよく、私の話を聞いてくれた。

それに引きかえ、母とのコミュニケーションはうまくいかなかった。いくらよい関係にもって行こうと努めても、常に惨憺たる結果に終るのだった。母は、祖母もそうだったが、フランス語もニース方言も一向にうまく喋れるようにならなかった。その上、故郷を捨てた多くのイタリア人に通有のことで、次第に母国語さえ覚束なくなっていた。母との会話は、すでに言語の障壁に阻まれていたのである。この言語紛争は、その背景により根深い事情を孕んでいたから、母はいつも自分の周りに高い壁を築いて閉じこもってしまうのだった。母の無知がそうさせたということもある。

母の両親が母に全く教育を施そうとしなかったのも事実である。両親はただ母を良妻賢母に育てようとするばかりで、最大の願いといえば母が料理上手になることだった。だから母はボローニャに住んでいた伯母の家に修行に出された。ボローニャ人というのはいわばイタリアのリヨン人である。彼らは料理の伝統と美食趣味を自慢する。ボローニャ料理は半島から高く評価されている。「家政学校」に寄宿した母は、そこで素晴らしい才能を発揮したのだった。
サン・ジョセフ街(ニース)では、母は大方の時間を台所で過ごし、いつも旨そうな料理をコトコトと煮込んでいた。ある周期でテーブルにあがる我が家の特別料理には、誰もが胸をときめかしたものだ。特にポレンタ(トウモロコシの粉の粥)は出色だった。父方の祖父はこのポレンタがお気に入りで、いくら食べても飽きないと言わんばかりだった。

ご馳走を作ることに、母は半ば無意識のうちに二つのメリットを見出していたらしい。一つは料理に打ち込めば父を家庭に繋ぎ止めておくことができるという利点 だった。実際、父は生来、または歌手という職業柄、家から離れる生活が長かったし、女性にも大いにもてた。母はそのことを知っていた。あるいは、少なくと もそう信じていた。だから、旨いものには目のない父を手作りの料理で家に引き戻そうとする目論見があった。父は料理を作る妻が傍らにいないときは、自分では何もできなかったから、外食によって美食を楽しむほかなかったのである。

もう一つのメリットは、今日の心理学でいう「補償行為」だった。母は台所という自分だけの世界で、思う存分羽を伸ばしながら料理に熱中し、さらに食卓では家族の前で有無を言わせぬ優越感に浸ることができた。だから母は、代償を求めることなく、全身全霊を料理に打ち込んでいた。一言で言えば母の生活のすべてが鍋の中に込められていたのである。ほかに喜びを表す場はなかった。

いつも憂苦に満ち、唯一の息子も悩みの種に過ぎなかった・・・。

母と私の間には永続的ともいうべき対立があり、年がら年中、衝突が絶えなかった。母に対する反抗的な態度がその原因であったことは間違えない。もともと私は、料理には何の関心もなかった。しかし、そのことは私たちの不和を生んだ表面的な理由にしか過ぎない。母と私の間 は、不和というよりも、むしろライバルという関係に近かったと思う。母の目には、私は母と父の間を隔てる邪魔者としてしか映らなかった。私がいるために、 母は父にぴたりとついて、その一挙手一投足を十分にフォローすることができなかった。つまり私は、夫婦の絆を緩めてしまう存在であったのだ。母は、父がかくも浮気っぽく、何の憚りなく「アーティストの生活」を営んでいるのは私のせいであると、妻としての自負と女らしいナルシシズムから結論づけていたのであ る。

私は私で、その深い恨みが分かっていながら母に反抗し(決して意識的でなかったが)、頑固にたてついて、決して折れようとしなかった。母の前で涙を流した覚えはまずない。
それがまたこの上なく母を傷つけ、私の性悪さを示す最たる証拠ともなった。母はある時、不意に私の世話をすることを放棄してしまった。父はどんなに忙しくても、私の面倒を見なくてはならない羽目になった。しかし父は、実のところ、私が生まれてから数ヶ月目から、ずっと乳母としての役割を果たしていたのであ る。

こうして母と私の関係は、この上なく険悪になっていった。その対立の火に油を注いだのが母方の祖父ラッジだった。それは祖父の喜びのようでもあった。喜びと言ってよいのかどうか、実のところいまでも私にはよくわからない。祖父の態度はそう決め付けるには曖昧だった。いろいろな意味に取れる態度だった。祖父は私に随分と贈り物をしてくれたが、一方では私が冗談で口にしたことや、あることないことのすべてを母に告げ口していたのだった。おかげで私は、毎日のようにお仕置きを受けた。この同じ人物の両面性、いや二重人格性は、私にとっては重大な問題だった。人間性について深い洞察が得られたということで、やがてその経験が大いに役立つ日が来るのであるが。

考えれば考えるほど、このアルフ レッド・ラッジという人は奇妙な人物だった。臆病で陰険で、迷信ばかり信じるナイーブな神秘論者で・・・・。死んだ後のことが恐ろしいのでいつも祈ってはいたが、信じる宗教が教える道からいつも外れていた。ちょっとした誘惑にもすぐに負けてしまった。ぶつぶつと不平を言いながら、宿命論に流されていた。激しく怒りを燃やす相手といえば、この私だけだった。祖父は何かを話すとき、私が口を挟むことに我慢ができなかった。私に黙らせておいて、自分だけに喋らせようという要求は途方もなく不公平だろう。特に口論となればいつも悪いのは私だった。私が子供だったからである。ある日、食事の最中に私は自分の考えを述べようと立ち上がったことがある。しかしそのために私はいまでもありありと覚えているようなひどいお仕置きを受けた。だがその日も父だけは、私の話によく耳を傾けてくれたのである。

ラッジは私が初めてその存在を知ったころ、いったい 何をしていたのだろうか。何もしていない。祖父は祖母に全てを任せているだけだった。その祖母はといえば、娘と同様に言語障害に陥り、自分の殻に閉じこもっていた。口を開くのは稀だったし、耳はもっといけなかった、対話の望みは絶たれていた。さらに視力は衰え、ほとんど見えないほどだった。祖父はやっか い払いをするために(そうすれば外出して人前で気取って見せることができる)、毎日、祖母を言いくるめては遠く離れた山に送りだした。

私は時々、祖母の散歩についていった。ほとんど言葉を交わすことはなかったがそれでも一緒にいることはできた。今行ってみると何の変哲のないところだが、当時はパラダイスと見まがうほどの場所があった。そこでイタリア人の子供たちと会い、一日中裸足で駆け回ったもの である。遊び場は無限に広かった。そこはサンマルタン・デユ・ヴァール地方のボールーの近辺だった。喉が渇けば、山羊にしがみつき。その乳房から直接乳を 吸った。

祖母が亡くなった時、アルフレッド・ラッジはしたたか涙を流した。だが、心から泣いていたのだろうか。それは結局、祖母に与えることのなかった愛を悔やんでの涙か、あるいは自分の守り役を失ったという、もっと俗っぽい、エゴイスティックな涙だったのかも知れない。いずれにしても、祖母の死によって祖父は いっそうの孤独に陥った。祖父と交流のあった人たちも、私が以前から気づいていた二重人格を嫌って、自然に足が遠のくようになった。すべてが祖父の罪というわけではない。誰もそこまで自分の神経症の責任を取ることはないだろう。それでも裏表のある振る舞いのために、人は少しずつ離れていく。運命の皮肉とい うかその最晩年のころは、少しでも祖父の相手をし、ちょっぴり親しみを与えるのは私だけになってしまったのである。

二人の祖母に私はあだ名をつけた。山を歩いた方の祖母は「ネーナ・デッラ・モンターニャ(伊)」、「山のおばあちゃん」という意味である。もう一人の祖母は「ネーナ・ドゥ・パイヨン」つまり「パイヨンおばあちゃん」。いつもニースを横切って地中海に注ぐパイヨン川で洗濯をしていたからである。

この二番目の祖母は(この本の冒頭でちょっと紹介しておいたが)、とてもよい人だった。片手で持ち上げられそうな小さな人だったが、その体には想像を絶 するほどのバイタリティーが潜んでいた。このおばあちゃんは決して死なないと、私は信じていた。祖母の母親は百三歳まで生きたし、二人の伯母もそれぞれ百五歳と百八歳まで長生きした。そこでパイヨンおばあちゃんも九十歳くらいまではすこぶる元気だったのだが、悪性の風邪から肺炎を起して亡くなってしまっ た。私とこの祖母は特に深い愛情で結ばれていた。命の恩人だったばかりでなく、多分に私は彼女の子供といった関係にあった。

私は父方の祖父も大好きだった。この祖父も私を同じように愛してくれた。ニースの家の記憶には、いつもこの祖父が共にいる。そう、ここで、これまでに紹介した三組の夫婦が一緒に一つの建物の二階を占めていたことをはっきりさせておかなくてはならない。私の両親は右翼を占め、母方の祖父母は真ん中の部分 に、父方の祖父母は左翼に住んでいた。こうした同居の配置は、南仏の家族にはよくあることである。問題は、神経を尖らせるような事件が年がら年中絶えない ということだった。ましてや、ラッジおじいさんは「事を起す人」として知られていた。

トマティスおじいさんは私の遊び相手だった。私が三歳か四歳のころ、タロというゲームをやったことがある。そのカードは巨大で、子供の手には持つのが やっとだったが、もっと厄介なことが別にあった。それは祖父も私も、ゲームの規則をよく知らないということだった。それなのに二人は勝負に熱中した。私は 子供だったから無理もないないと思うが、祖父その子供に勝ちたがった。そこが祖父の性格の特異なところである。「ぼくがこの回は勝ったよ」と宣言すると、絶望の淵に追いやられた祖父は、もう泣かんばかりだった。祖父はカードを投げ捨て、私を置き去りにして立ち去った。そして、祖母にこう言っているのが聞こ えてきた。

「でも、いずれにしろわしが勝ったんじゃ。絶対わしじゃよ、誰が何と言っても」

そんなことを別にすれば、こんなに優しい人には巡り合ったことがない。祖父は山のような人だった。自然の驚異、巨人 という意味でである。まだ祖父がピエモンに住んでいたころは、一人でも何人もの相手に立ち向かう力業が男の価値を決定した。六人の敵を背中から打ち掛から せなければ、名誉ある闘いを勝ったとは評価されないのだった。七人だったかも知れないが、それはよく覚えていない。とにかく祖父はそれに勝ち抜き、丸太を 斧で割る競技にも驚異的な腕を見せた。その上、兄弟たちと同様、大食いで有名だった。むしろ、いくら食べても腹いっぱいにならない人と言った方が正しいだ ろう。ある時、あまり詰め込むので心配した外国人の前で、祖父は指を立てて見せながらこう言った。
「なに、パンはこれぽっちしか食べませんよ」
パンはそれほど食べなかったというのは本当である。しかし、ポレンタは何キロ出されてもびくともしなかった。

この祖父について、私は無限の人の良さ、まずお目にかかれない人間的な温かさを記憶にとどめている。祖父が生来の歌の才能に恵まれていたことも思い出される。父は、すでに述べたように、十四歳の時に歌うことを強制されるまで歌とは無縁だった。しかし父の父は生まれつきのシャントゥールだった。祖父の喜びと悲しみ、不安、そして夢はすべて歌を通して表出された。祖父は自らが言うところの、ベロルガンヌ(良い発声器官)の持ち主だった。わけてもその声量は抜群 だった。祖父が歌い始めると、私は押入れの中に隠れる他はなかった。その声は町一帯に鳴り響いていた。

ずっと後のことだが、ある劇場で世界一大きな声というのを聞いた父は、そんな声は初めてだと言った。父もその力強い声で有名だったが、私は父の声など は、この祖父の比ではないと思っている。祖父の声は、まったく大河のようだった。声域は広く、絶妙なしなやかさがあったから、どんな音域でもこなせたに違いない。誰かと一緒に歌うとき、祖父はいつもその補完声部を受け持った。しかし、祖父はテノールでもバリトンでも、バスでも自由自在だった。

以上が私の幼年時代に重い影を落とし、あるいは眩しい光を放った人物像である。しかし、人物画を完成させるには、あと二人ばかりのシルエットを必要とす る。すでに見てきた人たちよりは遠かったが、いずれも私の子ども時代にとって大きな存在だった。ヴィクトル伯父とクレマン伯父の二人である。

ヴィクトル伯父はかなりの難聴だったが、決して世捨て人とはならず、誰とでもよく付き合っていた、彼はいまでも変わら ないが、ほれぼれするような美男子だった。あだ名はイタリア語で「ベレッサ(美)」。しかし、外見だけからそう称えられていたのではない。むしろその心が美しかったからである。何も企むところのない、さっぱりとした人であった。伯父は祖父そっくりで、もし祖父が亡くなったとしたら、私の心の中で占めていた祖父の位置をそのまま伯父が占めていたに違いない。何と優しく、素晴らしい人だったろう。伯父は子供の私を、いつも対等に扱ってくれた。その人の良さのほか、私をびっくりさせたのは、これ またよく食べることだった。特に砂糖には目がなかった。伯父が仕事から帰ってくると、祖母は砂糖の缶を早く開けなくてはと、そればっかり気にするほどだっ た。

新聞を読むながらしきりに砂糖を口に運ぶ伯父。それが毎日のように続くので、一キロの砂糖など、すぐに消えてしまうのだった。

クレマン伯父は、兄ヴィクトルとは違っていた。一家の末っ子だった彼は、親から甘やかされて育った。こちらは車とス ポーツに目がなかった。彼はしばしば 私をローゼルガントに乗せて、アルプスやピレーネ山脈をドライブした。ローゼンガルトは、当時の有名な新車である。この叔父のおかげで、私は明け方の素晴 らしい光景を目の当たりにすることができた。

サン・ジョセフ街の日々は、こうして明 け暮れた。怒り狂った日、幸せな日、燃えざる諍いの日、この上ない優しさに包まれた日・・・・。子どもの頃の、胸をわくわくさせる、ぱちぱちと音を立てて はじけるような長い日々、好奇心に満ちた絶えざるドラマと興奮の連鎖。私の頭の中には、トマティスおじいさんの気分を沸き立たせるような歌声やラッジおじ いさんの止むことのないぶつぶつ声、母のがみがみ声が響きわたり、そこに父の沈黙が交差する。父の沈黙は、「パパはここだよ、さあ、なんでも言いなさい」 と無言のうちに語っていたのだった。

この温かい沈黙の方が、饒舌な愛情の表現よりもずっと身に沁みた。なぜならば、私はずっと自分の言うことをきいてもらうために闘っていたからである。多 くの子どもたちがそうであったように、家族の権威によって酷にも「口をつぐむ義務」を強いられ、反抗しても屈服させられるのが常だったからである。それで も、少なくとも一つの耳は私の方に向けられていた。そして私を理解しよう、私を救おうとしているのを私は知っていた。

私とは直接関係はなかったが、もう一つの紛争が家中を騒々しくした。父方の祖父母と母方の祖父母(南部ではこの関係を 「コンペール」と呼んでいる)の間に潜在的な対立の種を蒔いたのは、アルフレッド・ラッジの態度だった。それでも、四人の意見がよく一致する話題が一つあった。それは戦争についてである。 どちらの祖父母も何かがわかっていたわけではない。ただトマティス側は、イタリア人の感情から、息子たちの大部分がフランスのために前線に送られ、決して 帰ってこないことに恨みを募らせていた。こうした悲劇を生む制度は、彼らにとっては途方もない不条理である、また血生臭い罠なのだった。彼らは激しく軍国主義を非難した。しかも祖父にはムッソリーニへの反発から結婚したという事情もある。父もこの平和主義には同調していた。

1923年か4年、父は非常に条件の良いステージ契約でニースをワンシーズン、つまり六ヶ月間留守にすることになっ た。あれこれと記憶を辿ると、このころ 父に連れられて何度か旅行をしたことが思い出される。特にベルギーでは二つのことが私を驚かせた。一つは何もかもが、特に歩道が極めて清潔だったこと。も う一つはタルチーヌ(サンドイッチ)がばかでかいことだった。歌手の世界で、年々父の地位は上がっていった。声の質についていうなら、四十一年のキャリア の間、フランスでは全くライバルが現れず、その世界では最高のギャラを誇れる人になっていた。しかし父は、途方もない気前よさでそのシーズンの稼ぎを取り 巻き連中にばらまいてしまったから、金欠に陥ることもしばしばだった。そこで家計を破綻させないように定期貯金が不可欠となった。そして、それがまたペシミズムの嵐を巻き起こし、我が家に緊張を醸し出すのだった。

私は手の焼ける子だった、とよく聞かされた。どうも乳飲み子のころから、夜も日もなくむやみに泣き叫ぶタイプの子供 だったらしい。泣き声で夜のレッスンを 台無しにされた父は、怒り心頭に達して、私を洗濯物か何かのように屋外に吊り下げる方法を編み出した。後にしばしば私を襲うようになるめまいは、この荒療 治のせいだったかもしれない。

私の幼年時代は、生まれ落ちてすぐから、ずっと病気と共にあった。恐らくは愛情の欠乏が(わが子の問題に無関心な母と 留守がちな父)、私が周囲の世界に 溶け込むことを阻んでしまったのだろう。誕生日の日から十一歳までの間に、私は子供が罹る病気のほとんどを体験した。特に消火器系の病気を次から次に患っ たのは、精神的な原因だったからに違いない。それは途絶した母とのコミュニケーションに起因するはずだ。医師、とくに心理学に情熱を燃やす医師にとってこ れは分析に値する症例だと思う。母との不和は私にとっても、人間関係の心理学を究めるために極めて有益だった。と言っても、私がそこにいささかのシニシズ ムも込めていないことは分かっていただけるはずだ。

ともあれ、私の枕元には医者が引きも切らずに訪れてきた。そのうちの一人の医者を私は今でもよく覚えている。その医者はおおざっぱに聴診器を当てるとこう言った。
「何でもありません。仮病を使っているだけです。あなた方への嫌がらせのためにね。」
事を悪い方に運ぶのに、これほど役に立つ言葉はなかった。その上、皮肉なことに、そのときの病気は心理的な原因とは無関係なのだった。なのに、熱を計るまで、誰一人として病気の重大さに気づかなかったのである。

我が家には体温計がなかった。熱を計るときは、額にコインを置くという方法でずっと間に合わせてきた。コインが額から ずり落ちれば熱はない、額に張り付 いたら熱があると診断する実に原始的なテクニックである。そしてそのとき、コインは私の額にへばり付いたままだった。それからが大騒ぎだった。私が昏睡状 態に陥ったからなおさらだった。何と私は、腸チフスとマルタ熱、そして発疹チフスという三病に同時に罹っていたのである。

そんなばかなと思う方もあるだろうが、そのころ私がどんな状態にあったかが分かってみれば納得もいくだろう。腸チフス はニース旧市街の家庭でしばしば見 られた、かなり不衛生な食品管理の結果だった。マルタ熱は、あの山で山羊の乳房にむしゃぶりついた報いだった。そして発疹チフス(これはネズミのノミから 感染する)は、人知れず地下室を探検したときのお土産だった。はからずも私は動物たちの病気の棚卸しをしてしまったというわけで、賞状は錯綜し、それぞれ の病気に特有のサイクルが交差し合った。その診断はさぞ難しかっただろうと同情する。

不意を突かれた医者たちは、てんでにその場しのぎの御託を並べるばかりだった。とどのつまりは、カルコピーノ博士とか いう先生を呼ぶことになった。(後で知ったことだが、この人は作家フランシス・カルコのお兄さんだった。)その臨床医はニース方言で話したので、それからは急に話がよく通じるようになっ た。また博士が放つ一種の人格の光が、診断と腕に信頼感を添えた。私自身、夢うつつ状態にありながら、このお医者さんは人の話に耳を傾けることのできる数 少ないエリートなのだと敏感に悟っていた。

ほかの医者たちと同じように、博士は私の上に覆い被さるようにして聴診器を当てた。
長々と忍耐強い診察だった。それから背筋を伸ばすと、いとも簡単に「何の病気かわかりません。調べてみないと。」と言った。

博士は検査した。そして、二、三日たって、ついに病名をつきとめた。そのとき、高熱の霧を突き破って私の頭の中で稲妻のように閃いた光は、私の胸の奥に鳴り響いた音は、「調べてみないと」の一言だった。私はうわごとのようにつぶやいていた。
「ぼくも、いつか医者になろう。知らないことを調べる人になろう。」

中学校の最終学年になってグランゼコール(専門大学。大学よりも格が上)への編入を目指した数ヶ月間はそれどころではなかったが、医者になりたいという野心はずっと私の胸深くにくすぶっていた。それが実現し、医学分に入るまでくすぶり続けていた。

初めてその意志を家族の前で披瀝したとき、みんながわっと賛成してくれたとは言い難い。私が9歳の時だったから、誰もまともに取り合おうとはしなかった のだ。だいたいそんな希望自体がおかしいと受け取られたのだろう。病気に病気を重ねて、学校からも遠のいているお前が医者になるんだって、というわけであ る。いつも医者の厄介になっているお前が他人様の治療をするなんて笑わせるんじゃない。そんな調子でみな、私の話など鼻先であしらいながら、肩を揺すり上 げるのだった。だが、父だけは違っていた。

父はそれが子どもの気まぐれな思いつきではないことを知っていた。父はまた、私が本当に医師という仕事を志しているのかどうか確かめようとしていた。そして、この時もまた、(国と国が理解し合うように)父は私の希望を認めたのである。それからさらに二年間、私は絶えず病床にあった。しかし、ひとたび全快 すると、父は私が希望通りの道を進めるように、いろいろな準備を始めたのだった。

しかし、ことはそうすらすらとは運ばない。いや、それどころの話ではなかった。私には上級学校に進むだけの基礎学力が欠けていた。フランス語さえ完全に はマスターできていなかった。なんとかこの第一関門を突破させようと、父はステージ契約を結んで滞在していたマルセイユに私を呼び寄せた。しかし当然のこ とながら、父を喜ばせたいという気持ちは強かったものの、せっかく入学させてもらったリセ(中学)では優秀な成績を収めることはできなかった。それどころ か、前代未聞の零点をとって老練な教師たちを嘆かせてしまったのだ。しかし、あっさりと虚をつかれ、したたかに手傷を負いながらも、私は決して意気消沈す ることはなかった。うんと勉強すればいつか何とかなるだろう、答えは出せなくても問題の意味くらいは分かるようになるだろう・・・・。私は高を括っていた が、結局は環境に適用できなかった。それが敗北の元なのである。

劇団の子どもたちの多くは、両親と共に町から町へ移り歩く。決して一つの場所に根を下ろすことはない。学校が変るたびに、いつもゼロからのやり直しなの である。教師と同級生の顔ぶれが変るばかりではなく、教授法も教科書も、時には教科構成も一変するのだった。それはその都度、見知らぬ国や不親切な国にパ ラシュートで降り立つようなものだ。

それでも父は、度重なる失敗にもめげずに私の面倒を見続けたのだが、やがてこの方法を続けても私の将来のためにならないということに気づいた。そして、もっとよい方法はないものかと模索し始めた。

母は私を寄宿生にするという案をほのめかした。しかし父の解決策は別のところにあった。誰もそんなことを思いつこうとは予想だにしなかった方法であった。
「よく考えてみたんだが・・・、もしお前が本当に医者に、それも優れた医者になりたいというのなら、パリに行かなくちゃならん。パリには誰も知った人がいないから、お前は独りで道を切り開かなくちゃならないんだが、そうしながら人生というものをも学ぶことができるし、それも多分、無駄なことではないよ」

こうして私は、十一歳のとき、独りでパリで暮らすことになった。リセの寄宿生としてではなく、自由に行動できる通学 生としてだった。両親も友人も自分を監視する人もいなければ、困ったときに金を貸してくれる人もいないパリ。振り返ってみると、よくそんな冒険をしたもの だと不思議に思われるが、そのときはそれほど大変なことだとは思っていなかった。

子どもの保護という観点は、当時と今とではまるっきり違う。今のように忙しくも、こすからくもない社会で出会う危険 は、ずっと少なかった。それに十一歳と もなれば、今の子どもと違って随分と世慣れていたし、早くから大人としての責任を負うことにも慣れていたのだった。いずれにしても家族の目には、パリ遊学 というこの決定も、医者になりたいという私の希望に比べれば、それほど突飛には映らなかったのである。

父は私をパリ郊外のヌーイ、テオフィル・ゴーチェ街六番地のアパートに入れてくれた。当時のヌーイは、まだ村だったこ ろの面影を残していた。そこからリ セ・パストゥールに通う道々は、建物の間よりも公園を抜ける距離の方が長かった。子どものころ、この近辺に住んでいたという何人かの教師は、いま市場のあ る場所はジャガイモ畑だったし(あのパルマンチェが最初の実験的にジャガイモを植えたのがそこだった)、よく乳牛の群れにも出会ったものだと語ってくれ た。

アパートは居間兼食堂、寝室、そして台所と浴室から成っていたが、私は浴室を書斎に使っていた。何とも異国にきたとい う感じがつきまとうのは、毎日の寒々 しくてはいいとの天候だった。私はやはり「太陽の子」だったから、それにはこたえた。日光が懐かしかった。後年、スペインに惹かれるようになったのは、そ のときの反動かも知れない。しかし私をもっと驚かせ、悲しませたのは、パリの土の色だった。土は赤くなかった。南仏の赤い畑に慣れていた私は、すっかり戸 惑ってしまった。やがて異様な畑の色にも慣れてきたが、赤い土への愛着は消えなかった。後年、しばしばアンダルシア地方のアルメリアに近い小さな村を訪れ るようになった理由の一つも、赤い土への憧れなのである。

こうして私は十一歳にして、自分の国ではない地(そう思えた)に腰を据えたのだった。とにかく、母との諍いから逃れら れたのは嬉しかった。だが私は、炊事 から洗濯、裁縫から掃除まで、さまざまな仕事を一人でこなさなくてはならない。すべての問題に自分で策を見出さすのは並大抵のことではなかった。補助も手 助けもなしに、持ち金だけで生活費を賄わなくてはならなかった。やがて少数ながら友達ができるようになると(私は同級生から仲間外れにされた。その訳は後 で説明しよう)、そうした悩みはすべて解決するようになった。とりわけ、ジャン・コティは私の親友になってくれた。両親にも引き合わせてくれ、しばしば夕 食にも招かれるようになった。

学校への行き帰りの道で、リセ・パストゥールの学監を務めていたボネという人に出会ったのも幸運だった。ボネはトゥ ルーズの出身で、父の美声の絶対的賛美 者だった。彼は周期的にテオフィル・ゴーチェ街のアパートを訪れ、あれこれとアドバイスしてくれたばかりか、私の指導司祭にもなってくれた。私の抱える問 題をすっかり理解してくれた彼は私の勉学とまた学校当局との関係についても、権限の許す限り便宜を図ってくれた。今だから言うが、最初の二年間、私の成績 は最悪だった。普通ならとっくに退学になるところだったが、ボネはいくつかの特例処置をとって私を助けてくれた。たとえば、予定の時間に学校にたどり着け なくても、作文の提出を許可してくれたりもした。

なぜ時間通りに授業に出られなかったかと、疑問を抱く方もいるだろう。またもや病気のせいなのか。ノン。いつもピンピ ンしていたわけでもないが、もう床 につくような大病を患うこともなかった。それではなぜ?実は働いていたのだ。仕事を求めてあちこちを歩き回り、夜は夜で封筒の宛名書きに精を出した。それ は何千枚もあった。

私は希望を叶えてくれた父に感謝するために、生活費は一銭たりとも父に頼らないようにしようと心に決めていた。学年の 初めになると父は決まって六千フラ ン(当時としては妥当な額である)出してくれたのだったが、父が私に会いにくるときに(年に二ヶ月はテオフィルゴーチェ街の私のアパートで過ごした。だい たいはオペラ座との契約期間中だったが、時には休暇も利用した)、それは必ず返済するようにしていた。

しかし私自身が親となった時、それが父を喜ばせることだと思い込んでいたのは間違いだということに気づいた。父が舞台 を去ったとき、私は父に快適な老後 を過ごしてもらおうと援助を始めたのだが、それが父にとってはかえって負担となった。父は、私がかつてそうしたように援助のお返しをしたかったのだが、そ れができないことを気に病んだのだった。そのとき私は、昔若気の過ちを大いに悔やんだ。だが三十年代の初めには、そんなことは思いも寄らなかった。私はた だ父に金を返すために働き、それを大好きな父に対する感謝の証としたかっただけなのである。

いずれにしても、当時の私は行動の一切を自分自身で決めていた。自分を小さな大人だと感じていた。そして私にとっての 大人の生き方とは、ただがむしゃらに 働くことだった。歯をくいしばって努力することも苦痛ではなかった。それは、しごく当然のことだったのである。十一歳から十三歳にかけての、あのすさまじ いエネルギーは、一体どこから湧き出ていたのだろうか。私はまだ、その確かな答えを見出してはいない。

私の精神力を父への愛情と父の私への愛情が支えていたことは間違いないだろう。それだけでも十分にエネルギー源の説明 がつくかも知れない。ヌーイで独り暮 らしをするようになったその日から二十五歳になるまで、私と父は文通を欠かさなかった(無論、一緒に暮らしていた期間は別である)。私は母にもそうしよう と努めてみた。私は幾度も母に便りを認めたが、母はたどたどしい行数の文字さえ書こうとはしなかった。

私は父のおかげで学びながら、父のために学び、その努力のすべてを父に捧げようとしていた。より正確にいうなら、父に 倣うことで父との絆を強めているのだ と信じていた(この点はいくら言っても言い過ぎではない)。しかし、ずっと後になってそうと知るのだが、そのころの父は、怠け者になったのではないにし ろ、子どものころに私が見てきたような仕事の鬼ではなくなっていた。ある日、私はかなり成長してからのことだが、父は私の生活のテンポについていくのは苦 痛だと漏らしたことがある。私の方は父の真似をしているつもりで、昼夜を分かたず働くのが習慣になっていたのだが、それがヌーイで私と一緒に暮らす間、父 の生活リズムも狂わせてしまったらしい。私は夜更けに床に就き(宛名書きのアルバイトがあった)、夏も冬も、朝の四時には起床した。私が電灯をつけるの で、父は扉の隙間から漏れる明かりで目を覚ましてしまうのだった。

「やれやれ、もう起きているのか。私はもう少しうとうとしていたかったのに」

しかし、そう言いながらも父は、決まって五時までには起きていた。私はそのとき、父が私の部屋で「バカンス」を過ごすとき意外は、決して七時前に床を離れなかったということに気づかなかった。

私は、もっと寝ていたいなどと思ったことはなかった。アルバイトのほかに肝心の予習復習があったから、他の子供たち以 上に休息を必要としたはずなのに、 睡眠時間は極端に少なかった。私は眠り込まないように予防策を講じていた。特にテキストを大声で読む方法は効果があった。いま私は、相談に来るすべての人 にこの方法を推奨している。後でまた触れることにするが、声を出して読むことには多くの利点がある。特に、記憶力を強化してくれる。以前から私は記憶する ことが大の苦手だった。大声を上げて読むことを始めてから、すぐに効果が現れてきた。まず、テキストの内容がすんなりと頭に入るようになった。それが引き 金となって、また別の情報が蓄積されるのだった。クラスでの成績はぐんぐん上がり始めた。七年生(訳者注—日本の中学一年生)のとき、私は完全な劣等生 だった。六年生(日本の中学二年)になっても相変わらずぱっとしなかった。しかし四年生(日本の高校一年)になると理科系の科目はすべて断然トップにな り、文科系もかなりいい線まできた。そして三年生(日本の高校二年)では、ほとんど全科目で一番になっていた。ただ、体操だけは苦手だった。

私は、それが嘲笑の的だったので、体操でも賞を獲得してやろうと、奮起した。それも自己流で、なりふり構わず目標に向 かって突進した。まず廊下に鉄棒を固 定して、一日二時間、それにぶら下がることにした。こうして筋肉を発達させるのに効果のありそうな訓練を重ねることにした。ここでも私の意地が功を奏し て、ついに体操でも賞を獲得することができた。そして何年か後には、大学選抜大会にも出場した。やはり私は父の後を追っていた。父は肺を患っていたにもか かわらず、立派な運動家だった。ニースにいる間ずっと、自分の仕事を平行して体育のモニターをしていたほどなのである。

かなりの分野で優れた成績を上げることができたという経験から、私は、人間というものは表面的な限界に左右されるもの ではなく、絶えず自分を乗り越えてい く潜在能力を秘めていることに気づいた。どうということもない発見かもしれないが、私がまだ子供だった頃にそれを知ったのは幸運だった。ニーチェの有名な 格言に「我々は、我々自身になる」という一句がある。これこそ精神を高揚させる言葉である。それに私は常にインパルスを必要とする。生命力に関してはもっ と言いたいことがあるが、それは後回しにしよう、いずれにしても、考えれば考えるほど、私は自分がこの世に生まれてきた時の状況によってそのインパルスを 与えられたのだと、ますます信じたくなるのである。これを精神分析家がいう「経済的」観点から眺めてみたい。つまりこの、絶えず代謝され、涸れることのな いエネルギー資本は、私たちを踏み切り台へと押しやるために与えられるのであって、そこからの飛翔によってこそ、私たちは人生の意味を把握することができ る・・・。私がリセ・パストゥールに疲れを知らない猛勉強家の抜け殻を残してきたといっても、もう誰も驚きはしないだろう。

私の猛烈な努力が全学友を仰天させ、憤激させ、彼らのやる気を奪ったということに全く気づかなかったのは、実はこの私 だけだった。当然ながら、彼らに気に 入られるはずがない。それに、初めのうちはフランス語がうまく話せないこともあって、すでに多くの級友から仲間外れにされていた。やがて二、三人の仲間と 固い友情で結ばれるようになったが(この友情だけはその後もずっと続いた)、孤立していた私が、クラスではマージナルな存在であったことは変りなかった。

それに加えて、私の実生活そのものが、同級生のそれとは異質の考え方、人生観を私に植え付けていたということもある。 私は彼らとは違うふうにこの世の中 を眺めていた。例えば、私はゲームには何の関心もなかった。正確に言うならば、ゲームに加わることに何の喜びも感じなかった。端から見ているだけで十分 だった。カードにしても、傍観者でいる方が面白かった。十一歳のときブロットではかなりの腕を持っていた。しかし、いったんそれをマスターしてしまうと、 もう続ける気が起こらないのだった。この点ではいまでも変っていない。そのゲームの規則を覚えてしまうと、そこで興味を失ってしまう。それ以上続けたとこ ろで、人生には何の足しにならないし、ただそのゲームに長ずるようになるだけのことなのだ。私には、なぜ連中がそんなことにいつも打ち興じているのかが全 く理解できなかった。貧弱な規則の中で頭を無駄に回転させているのを見ると、単に暇つぶしというよりも、余りにも退屈過ぎて間がもたないのだった。

いずれにしても、強い感受性を持つ人たちと同様に、私は生来の観察者なのである。自分の周りに起こっていることを眺 め、それを分析することほど面白いこと はない。後にこの性格が、研究の上でも、臨床医となってからも、大いに役立ってくれた。しかしそうなったのは、先天的というよりも、私が同年代の少年たち よりもむしろ大人たちとよく付き合っていたからだろう。私には、大人たちの方がずっとしっくりとした。私が孤高な風をしていても、大人の気に障ることはな かった。世代の違いということで、それが当然に見られたのだった。私は憚ることなく彼らの話に耳を傾け、飽くことなく彼らを眺めていた。それが同級生の前 でとなると、私の引っ込み思案はただ容赦なく、お高くとまっているとみられるだけだった。臆病な子どもは常に、この点で貧乏くじを引く。本当は単なるはに かみから、あるいは劣等感から畏まっているに過ぎないのに、連中はそうはとってくれず、一種敵意とみる。とにかく私は臆病だった。度し難い臆病だった。そ のためにいつも、対人関係は深刻にもつれるのだった。

仲間はずれにされた私は、 いつも勉強への没頭という補償行為に逃れた。それがますます彼らとの間の溝を深めるのだった。いくつかの教科では、あまり進み方が遅いので、私はひとり先 に進んでいた。教師がまだ扱わない先の章をどんどんと開拓していった。朗読が効果をあげて、膨大な知識を蓄えることができた。それと平行して私の精神構造 も堅固になっていった。最終学年では、先生がタキトゥスの一節を読むと、即座に訳せるまでになっていた。先生はそれが嬉しかったらしく、最後の項には私一 人だけを相手に講義をした。他の生徒が聞こうが聞くまいがお構いなしに、ラテン語のテキストをどんどん読み進めていくのだった。
数学だけは何人かの生徒に引けを取っていたので、よけいにガリ勉となった。そうしなければ、かなり低い点を取っていただろう。私はいつものやり方で全力 を尽くして自分の脳を数学的な考え方に慣らそうと努めたのだった。そんなある日、学校から父宛てに手紙が舞い込んだ。校長の名で、パリに来られたときに是 非お越しいただきたいと書いてあった。そんなはずはない。成績も素行も別に悪くないし・・・・。そう考えながらも頭から血が引いた。知らずに何か重大な過 ちを犯してしまったのだと思った。しばらくしてヌーイにやって来た父は、さっそく学校に行った。校長は、私の数学の先生と一緒に父を迎えた。
「トマティスさん、とてもご想像できないでしょうが、私はある日、生徒たちにもし君たちの中に追加練習問題をやってみたいと思う者ものがいたら、いつで も見てやろうと言ったのです。私は毎年、自分の担当する全クラスでそう提案するのですが、これまでは何の反応もありませんでした。それがムッシュウ・トマ ティス、あなたの息子さんが申し込んできたのです。その日以来私は、自分の全時間を余暇の楽しみまでなげうって添削に追われることになりました。今では鞄 も、その練習問題だけでいっぱいです。全くどうしてよいやら分かりません。ムッシュウ、お願いです。何とかして下さい。息子さんに、私が可哀そうだと思っ て、もう少し手加減するように頼んでいただけないでしょうか。」

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