美智子の音楽史

子供の頃

なにしろ、私が小さい時には、戦争があったのでラジオが唯一の娯楽だったわけね。そのラジオが娯楽ってことが、私は耳から…今考えると、それこそ耳で聞くことによって子供番組でも、ドラマでも、すごく想像できたの、今と違って。今はTVとか映像があるから、直接絵で見ちゃうじゃないですか。私達の頃は音しかなかったので、今の皆には想像もつかないんだろうと思うんだけど、すごく想像の中の映像があったんです。で、映像っていうのは逆に色が勝手につけられる世界なわけ。だから、色も一緒にあわせて常に想像してラジオを聞くような子供だったんです。

で、歌を始めた理由っていうのが、その音が聞こえてくる世界の中で、浪花節であろうと、国民歌謡(ラジオ歌謡)であろうと、童謡であろうと、あっという間に覚えて、その通りに真似できる子だったんです。誰の真似でも!例えば「広沢 寅三」って浪曲の人の真似もしましたね。そんな私のそばにいつもいてくれた、母方の祖母が、「この子には、絶対、歌をやらせるんだ」って、言い出したんです。

それでも、はじめはどこに行って習えばいいのかも分からないし、ずっとそのまま大きくなって、9歳になった時かしら…まず音楽をするならピアノが先だっていうんで、祐天寺にその頃、歌謡曲の藤山一郎さんのお姉様がピアニストで、しばらくそこに通っていたの。でも、そこはお歌を教えて下さるところではなかったので、今度は歌のおばさん、松田トシさんていう先生がいらして、10歳の頃にはそこにお邪魔してたんです。そうしたら、ほんの何ヶ月も経たないうちに「あなたは芸大に入れるわよ」って先生がおっやって、「芸…大…??」私はそれがどこにあるのかも知らず、何をするところかもわからず、でも、なんとなくまぁ、その先生が卒業しているのなら、私もそこに行くのかな?みたいな感じで過ごしていましたね。そんなこんなで、中学生の頃には、先生に「大きくなったら人を教えるようにならなくてはいけない」って言われて、なぜだか知らないけれど、習ったばかりのコールユーブンゲンを、高校生のお姉さんや、一般の大きなお姉さんたちに、すました顔して教えていました。(笑)

学生時代

こうやって、音楽の勉強をしてきたんで、その、松田トシさんの推薦で(その頃は先生の推薦がないと入れなかった)、今で言う都立芸術高校、私達の頃は、都立駒場高校の芸術科っていったんですけど、そこに入学したんです。

入ってみたら、まあまあまあ、驚き桃の木で優秀な人しかいない!!私はそれまで自分はお利口なんだと思っていたのに、おバカだってことが分かってしまったの。こりゃどうしたことかって思うくらい最初は劣等生でしたね〜。でも、まあ、その分頑張りました!適当にできるようになっていましたよ!

今考えるとその高校の時がやっぱり、私の今の音楽の原点なのよね。なぜかといったら、音楽科が30人と絵画、彫刻、要するに美術科が20人の50人 が合わさって一つのクラスだったの。だから、音楽科の私達にとっては、音楽は珍しくないけど、でも、彫刻、油絵、水彩、粘土、すべてが珍しかった!だか ら、興味があって、興味があって、興味があって!どうやって作っているのかとか、モデルを見ながらデッサンするとなぜあんなに同じように描けるのか?と か、色の使い方、影の付け方 etc…。今まで自分達が図画工作みたいな時間でやってきたお絵描きと、彼らのやっていることはまったく異質なんで、すごい興味があったんです。だからた ぶん、そこでもって私は、立体感を学んだんじゃないかと思いますよ!

こんな環境にいて、さっきも言ったように音楽の人は何でもできちゃうすごい人達で、この、高校の3年っていうのは、何しろ…素晴らしい!!まあまあまあ、すごい世界でしたね!

でも、悪いこともいっぱいしましたよ!保護者会があれば、親は皆先生に「なんて子達なんですか」って叱られていましたね。

例えば、教室の出入りはすべて窓から。なぜかっていうと、玄関の入り口にはラグビー部の部室があって臭い!息を止めて通るのが苦しいから、いくら先生が止めても、教室が1階だったので、全員窓から。

また、冬の寒い日には、犬嫌いの英語の先生がいらっしゃったのですが、それにもかかわらず、可哀想だからって野良犬を教室のダルマストーブのそばにこっそり寝かせたり。そ んなことばっかりしている子供達でしたね。一年中悪いことばっかり探してる、それが生き甲斐だった、皆。でも、そんなことしていても、優秀だったんです!

充実した高校生活を経て、そのまま大学に入ったら、…たいしたことなかったんですね。こんなこと言ったら怒られてしまうけど。

それで、私は4年間な〜んにもしませんでした。学校に行って何をしたかっていうと、そうね…アメ横に行って化粧品を買ったり、輸入品のストッキング買ったり、美味しいお菓子を買いに行ったり!授業中は何していたかっていうと、もっぱらレース編み&刺繍をする!!私の友達なんか、授業中に作ったレース編みの モチーフを繋げて、ベットカバーにして、お嫁に持っていきましたよ。そのくらいやってました。

ピアノにしたって、高校の頃はガリガリやっていたけれど、入っていたら、皆、弾けない!だから練習する必要がなかったわけ。…うん、つまらない4年間でした。1年生、入ったときから4年で卒業するまで全然上手くならないんですから…。

学校の先生

だから、卒業したら私は音楽なんて「辞〜めっぴ」って思っていたんです。そうしたら、母校の中学から、先生をしてくれないかっていうから、嫌だーって言ったんです。でも「次の人が見つかるまで」っていうんで、2年半くらいやらされましたね。

それと同時に、今度は全然知らない先輩に高校の先生をやれって言われて、なぜ選ばれたのかって聞いたら、その学校から1番近いのが私だったらしい…。そこで、面白かったのが、初めて学校に出勤した日。白いブラウスに紺のスカートとカーディガンっていう真面目〜な格好で行ったら、教頭先生に生徒と間違えられてしまったの!私、若く見えましたから、それがスタートでしたね。そこでは6年間教えてました。6年間で得たのは…そうね、いっぱいのボーイフレンドかしら、年下の。ちょっと可愛らしい先生で、ミニスカートなんかはいてましたから、もてましたね。(笑)でも、私の言うことを聞かない子なんていなかったわ!私、こう見えても怖かったから!!

この頃は学校行きながら、ちょこっと生徒を教えたりしていたけれど、遊び暮らしてましたね。そうしたらある時、大学時代の教授が自分がヨーロッパに1ヶ月遊びに行くんで、うちの方面の生徒をドターッと見なさいって言われて、受験生を見たんです。それがはじめよ!定期的に受験生なんか見るようになったのは!その初めての生徒たちがそれぞれの大学に合格して、その後も、レッスンの下見ということで、生徒を見るようになりましたね。

ワグネル、そしてトマティス

その後は、30歳くらいの時、またまた頼まれて「次の人が見つかるまで」って言われてやったのがワグネルだったわ。私の高校時代の楽理の友人が都立駒場高校の先生になって、その卒業生が慶応に行ってワグネルに入っていて、どうしてもちゃんと見てくれるボイストレーナーが必要だということでその高校の先生に相談したところ、私に話がきたの。でも、私は冗談じゃない、乳飲み子を抱えているのにできないって言ったのに、誰もいなくって、かれこれ30年もやっているのよね。もう、昔教えていた子のお子さんに今教えているのよ!嫌になっちゃうわ。(笑)

最近になってからの転機はやっぱり、50歳過ぎに出会ったトマティスね。最初は頼まれて仕方なく、レセプションに行ったり、食事会に顔を出したり、でも、いろいろな人に「是非に!」と言われてもその気が全然なかったの。でも、口説かれ続けて、講義だけでも受けて下さいって言われて、しぶしぶ行ったら、その授業が始まって30分で、「あ〜これだ!」って思ったんです!!私が1番知りたかったのはこれだって思ったの。だから、それまで、受験生とか、外国人の演奏家とか、自分の歌とか、友達の歌とか、私の耳には色々な音があるじゃないですか。それらに「?」がいっぱいあったんです。それをトマティスをやったら、あ〜分かったって思った。すべては耳だったんだってことが!

人間が最初にお母さんのおなかの中で機能するのが耳なんです。耳は生まれたときに1番完成された形で、大きさも何倍にもならない。でもその分、1番最初に成長が止まってしまうのも耳なの。だから音楽は早期教育って言うのよね。でも、1番最後まで機能しているのも耳なの。1番最初に完成してしまうけど、1番最後まで使えるものだから、1番長くメンテナンスが必要なのに、皆「空気のようになっちゃんている耳」をほったらかしにしているのね。

トマティスのすごいところは、耳の訓練をするだけで、その人自身の熱意さえあれば、どんどん「その人自身が変わっていく」ということです!私がジャンルにとらわれず、トマティスの指導を続けているのは、人間が変化できる過程の素晴らしさ、面白さを見るにつけ、人間の限りない可能性をそこに見つけられるからなの!

そして、私の現在は進行中なんです。

※この文章は、日原先生が60歳のパーティの時に作られた小冊子に載せられたものです。この続きは、いずれ先生にインタビューして載せたいと思っています。

 

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